太平洋戦争 年表と戦死者数で知る 原爆投下を招いた日本の狂気

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太平洋戦争(大東亜戦争)の経緯と死者数を年表形式でまとめました。下記年表の記載だけでも死者数合計は121万2,232人に上ります。この戦争の経緯と死者数は、戦争の原因について、あなたに何を語りかけてくるでしょうか?

↓日本戦艦の「山城」「扶桑」「榛名」日本戦艦の山城、扶桑、榛名

太平洋戦争の経緯年表と死者数まとめ

1941年(昭和16年)12月8日 太平洋戦争開戦 真珠湾攻撃で勝利
その後、マニラ、シンガポールおよび南太平洋諸島で勝利し、戦線拡大
1942年(昭和17年)4月18日 アメリカ軍が日本本土に対し初めての空襲(東京、名古屋、神戸など)
1942年(昭和17年)6月 ミッドウェー海戦で日本艦隊は空母4隻を失う大敗
1942年8月~1943年2月 ガダルカナル島の戦い 敗北による撤退 死者・行方不明者は約2万人、うち直接の戦闘での戦死者は約5,000人、残り約15,000人は餓死と戦病死と推定
1943年(昭和18年)5月12日~28日 アッツ島の戦いで玉砕 戦死者2,638人
1943年11月21日~23日 マキン・タラワの戦いで玉砕 戦死者4,713人
1944年1月30日~2月6日 クェゼリン・ルオット・ナルムの戦いで玉砕 戦死者7,340人
1944(昭和19年)年3月~7月 ビルマの戦い(インパール作戦)で玉砕 3万人以上戦死(大半が餓死)
1944年5月~7月 ビアクの戦いで玉砕 戦死・戦病死 1万人以上
1944年6月15日~7月9日 サイパンの戦いで玉砕 戦死者約3万人に加え、日本の民間人8,000人以上がマッピ岬(バンザイ・クリフ)から投身自殺か日本兵に殺害された。
以後、サイパンを拠点としてB-29爆撃機による日本本土への空襲が本格化
1944年6月19日~20日 マリアナ沖海戦で壊滅的敗北 空母3隻と搭載機のほぼ全てに加えて出撃潜水艦の多くも失う 戦死者・行方不明者3,445人
1944年7月~8月 グアム・テニアンの戦いで玉砕 戦死者26,510人
1944年10月 海軍の大西滝治郎中将が神風特攻隊を編成 終戦までに特攻による戦死者合計9,564人
1944年9月~11月 ペリリュー・アンガウルの戦いで玉砕 戦死者11,886人
1945年2月~3月後半 硫黄島の戦いで玉砕 戦死者2万人
以後、米軍は硫黄島を拠点として、B29爆撃機による日本本土への本格的な無差別爆撃を開始
1945年3月10日 東京大空襲で、一夜にして10万人の一般人死亡
3月13日大阪、17日神戸、19日名古屋空襲 終戦までに本土空襲での死没者は50万人(原爆による死者含む)県庁所在地で本格的な空襲を受けなかったのは京都、奈良、金沢、鳥取、札幌のみ
1945年4月1日~6月下旬 米軍が沖縄本島に上陸、5月下旬迄に日本軍の主力部隊ほぼ壊滅
 日本側死亡者数 188,136人(沖縄県援護課発表 1976年(昭和51年)3月)
 内訳:沖縄県出身者122,228人(一般人94,000人、軍人28,228人)、他都道府県出身兵65,908人

1945年5月8日 ドイツが連合国に降伏
1945年7月26日 米・英・中三カ国の名でポツダム宣言(正式名「日本への降伏要求の最終宣言」)発表 軍国主義の抹殺、日本領土の占領、領土の縮小、武装解除、戦争犯罪人の処罰などを求めた全13か条から成る宣言
1945年7月28日 首相鈴木貫太郎は記者会見で「政府としては重大な価値あるものとは認めず黙殺し、断固戦争完遂に邁進するのみである」と発言

1945年8月6日8時15分 広島への原子爆弾投下 12月末までに約14万人が死亡したと推計(広島市ホームページ)
1945年8月8日 ソ連が対日宣戦布告
1945年8月9日未明 ソ連が満州国で対日参戦、ポツダム宣言に参加
シベリア抑留による推定死亡者数 約34万人(内訳:確認済み死者25万4千人、行方不明・推定死亡者9万3千人、米国研究者ウイリアム・ニンモ著『検証-シベリア抑留』)
1945年8月9日11時2分 長崎市への原子爆弾投下 12月末までに約7万人が死亡したと推計(1976年に長崎市が国連事務総長に提出した報告)

昭和天皇の終戦「ご聖断」に至った経緯

1945年8月8日 昭和天皇は、賜謁した東郷茂徳外相に「なるべく速やかに戦争を終結」させたいとの希望を述べられた。(宮内庁『昭和天皇実録」』)
1945年8月9日 9時37分、ソ連軍が満州侵攻を開始したとの報告を受けると、直後の9時55分に木戸幸一内大臣を呼び、戦争終結に向けて鈴木貫太郎首相と「十分に懇談」するよう指示。
8月10日午前0時3分 御文庫附属室(皇居防空壕内の会議室)で御前会議が開かれ、午前2時過ぎ、鈴木首相から「ご聖断」を求められた昭和天皇は、ポツダム宣言受諾を決心したと述べた。(『昭和天皇実録」』)
その後も、天皇の権限は連合国最高司令官に従属する(subject to)という連合国側の回答に対して、陸軍大臣らは国体護持ができないとして閣議が紛糾。
1945年8月14日 再度御前会議が招集され、あらためて天皇陛下から2度目の「ご聖断」が下され、「終戦の詔書」が14日付で発布されて、正式に戦争終結が決定。
1945年8月15日正午 昭和天皇の「玉音放送」がラジオ放送された。

最近の動向に関する 安保法案 違憲性を無視する日本は「法治国家」でない? の記事もどうぞご覧ください。

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